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人助けや問題解決は「パズル思考」で

こんにちは。
創ると書いてソウリョの下村知範(トモキ)です。

肩書きがなくて名乗るのに悩みます(笑)。

 

論語の中で、僕の好きな言葉を一つご紹介しましょう。

「我は賈(こ)を待つ者なり」

ご存知でしょうか?
その意味をエピソードで解説しますね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

弟子である子貢が、
「ここに美しい玉がございます。箱にしまっておきましょうか。それとも、善き買い手を探して売りましょうか」

と尋ねたので孔子は答えました。

「売るとも、売るとも。私は善き買い手を待っているのだ」と。

美しい玉は孔子の能力の比喩で、弟子は先生の偉大さを分かっているから、君子に仕えて能力を発揮しないと勿体無いと言っているわけです。

そこで孔子は、箱にしまい込むわけではなく、自分の能力をきちんと理解した上で求めてくる人を待っているのだと返事をしました。

要は、良いものだからといってむやみやたらに売り歩いたところで、価値を理解できない人に買われてしまうのがオチ。
表に出して目につくようにさえしておけば、その真価を見極める人が必ず現れると教えているのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

もちろん僕には孔子みたいな能力があるわけではないし、足元にも及びませんが、得意なことはあります。

それが「パズル思考」です。

朝に散歩をしていて思いついたネーミングです。ネットで検索しても引っかからないので、流行らせたいなぁ(笑)。

 

僕は仕事、プライベートに関わらず、相談をされることがよくあります。

そんな時、課題や問題を解決するためにどうするかと作戦を練るのが好きなんです。どうにもならないことはどうにもなりませんが、「出来ること」をパズルのピースとして、どのように組み合わせたら上手くハマってクリアできるのかを考え、実践して試行錯誤します。
これがパズルで遊ぶ感覚で楽しいんですね。

幼い頃からパズルやクイズ、謎解きは好きだったのですが、決して得意な方ではありませんでした。難しいものは解けません(笑)。
難易度で言えば、「中の上」ぐらいの問題がちょうど良い。

そう捉えると、人生における悩みごと、仕事での問題などは、僕の頭では解けない複雑なパズルに比べると難易度が低くて、ほど良い「中の上ぐらいのパズル」に見えています。日曜の朝刊で出題されているようなレベルでしょうか(笑)。

そうして解決したり、解決に至らなくとも方向性が見えたりすると、相手からはとても感謝していただけるんですが、当の本人はパズルを解いて遊んでいるだけなので、相手に尽くしたつもりはありません。仕事であれば報酬をもらえますし、仕事でなくともパズルを解けた達成感を味わえるのでそれで満足。新聞や雑誌をめくっていてパズルやクイズがあるとついやってしまうでしょ? それと同じですから(笑)。

 

ところで、「他人に与えるためにまずは自分を満たしましょう」などと言って、自分の欲望を肯定する人がいますよね。それも一理ありますけど、その言葉を使う人に限って、自分に甘くて欲望や感情をコントロールできていないことが多い。だから言い訳にしか聞こえないですし、ただのあまっちょろい戯言でしかありません。

反対に、人のために行動するという美徳に縛られて自己犠牲に陥っている人も少なくありません。さらに、人の悩みや負の感情に接するような場合は、自分もマイナスをもらってどこかでガス抜きをしなくてはならなくなることもあるでしょう。それが出来なければ自分が落ち込んでしまいます。

このように、「自分のため」「人のため」のどちらに偏っても、最善ではないと考えています。

パズルを解くことは自分の達成感に他なりませんが、他人のパズルを解くということは、自分のためでも相手のためでもなく、ただ「純粋に楽しく遊ぶ」という行為だけがあると言えます。そして結果として、自分のためにも相手のためにもなっていく。

また、パズルには正や負、清濁、善悪などありませんから、それによってマイナスを受ける事もありません。毒されないゆえに吐き出す必要がないのです。良いでしょ?笑

しばしば「人の悩みに寄り添っていたら自分もしんどくなることがありませんか?」と聞かれることがあります。僕は特に相手に寄り添っているわけでもないし(笑)、ただ遊んでいるだけなので、しんどくなるわけがない。動いたら動いた分、体が遊び疲れることはあったとしても一晩寝たら元気になりますし、むしろどんどん面白くなっていって充実感が溢れてきます。

前向きな相談、後ろ向きな相談、そのどちらであろうと、ちょうど良いパズルであって、僕にとっては魅力的なオモチャなんです。

「我は賈を待つ者なり」という教えに沿って風呂敷を広げて待っていると、僕の能力を買ってくれる人が現れる。それどころか、その人は魅力的なオモチャをプレゼントしてくれるんですよ。
そりゃもう感謝しかないですし、自分の生きる意義を実感させてくれます。

自分の問題も、他人の問題も、程よいレベルのパズルと捉え、今ある情報を整理して、特定の要素を組み合わせて結びつける。これはデザインを作るとき、資料をまとめるとき、何か行動を起こすとき、いかなる場面でもそうやって思考していることに、この記事を書きながら気付かされました。

良い悪いの判断をせずに純粋に自分に合ったレベルのパズルを楽しむ。目の前に表れるパズルは全て自分のレベルに合ったちょうど良い難易度。

これを「パズル思考」と名づけました。

では、楽しく遊んで有意義に過ごして参りましょう。

最高に贅沢な暮らし

こんにちは。
肩書きを聞かれると困ってしまう下村知範(ともき)です。

最近、一期一会にかけて、古典哲学の言葉から知恵を学ぶ発信を始めました。

宗教、哲学、文学、芸術など幅広く先人たちの知恵から
学ぶキッカケづくりができればと思っております。
Instagramですので是非フォローよろしくお願いします🙏

フォローだけじゃなくいいね!とか、ちゃんと反応してくださいね(笑)

Instagramはこちら

 

さて、突然ですが
あなたの贅沢って一体なんでしょうか?

高級な料理を食べること?

旅行で好きな場所へ行くこと?

買い物で高価な商品を買うこと?

クラブを飲み歩くこと?

それとも、何にもしないこと?

「贅沢」と聞くと、お金や時間をたくさん使うことを
真っ先に思い浮かべてしまいませんか?

僕は、本当の贅沢とは質素な中にこそあるのではないかと思うのです。

何気ない今日の1日を振り返って書き出してみました。

①4時半に起きて読書したり、考えをノートに書き出したり、PC作業をしたり
②6時から30分ほど散歩
③7時に畑へ行って夏野菜の畝の片付け作業
④8時に山の麓の湧き水を飲んでお堂でお勤め、座禅
⑤9時半頃に帰宅して植物の水やり、仏壇で線香をあげる
⑥シャワーをして10時過ぎからPC作業
⑦昼前に収穫した野菜を使って料理をして昼食
⑧14時から打ち合わせに出かける
⑨夕方に2件目のアポを済ませて帰宅
⑩7時ごろに家族と夕食
⑪PC作業をしたり、だんらんしたり、読書したりして10時には就寝

なかなか質素でしょ?笑

特に変わったことやお金をたくさんかけるようなことはしないのですが
一瞬一瞬がとても充実していてその時を味わっています。

不思議と早朝に考えていたことが
その日会った人との会話の内容とリンクすることは日常茶飯事。

また、仕事時間が短くても、適度に体を動かした後は集中力がアップして
効率よく作業することができます。

特に大きな望みはないけれど
このような日々を過ごせることがとてもありがたくて
「いつもありがとうございます」の気持ちで
お堂や仏壇で手を合わせています。

これが、僕にとっては最高に贅沢な過ごし方なのです。

真の贅沢は質素の中にあるのではないでしょうか。

合理的に手間を省いて何かを得るのではなく
あえて手間をかけるところに真の贅沢があるのではないでしょうか。

ぜひ、あなたも自分にとっての本当の贅沢ってなんだろう?
と問いかけてみてください。身近な贅沢に気がつけるはず。

インプットとアウトプットの順番

こんにちは。

最近、中国語の勉強にハマっている下村知範です。

漢詩をもっと味わいたいという願望に端を発し、また比較言語学について勉強しているうちに語学自体にも興味が湧いてきたこともあって、簡単な会話ぐらいはできたらと思い勉強を始めました。こんなに情報が溢れている世の中であれば、独学でも語学の勉強はある程度できるはずと踏んで、独学で何ヶ国語喋れるようになるのか実験中です(笑)。

英語と中国語、ドイツ語の勉強を始めたのですが、あれこれ手を出しすぎると中途半端になってしまうため、今は馴染みの深い漢字が特に面白いこともあり、まずは中国語に力を入れているところです。一年後、どのくらい成長できているのか楽しみです。

 

さて、ぼくは「人生は呼吸である」と考えています。

 

「さあ、まずは深呼吸をしてみましょう!」

鼻から大きく吸って、それから息を吐きませんでしたか?

僕はその順番、逆だと思っているんですよね。まず吐くことから始めるのが正しい順序です。「呼吸」という字から見ても、「呼」すなわち「吐く息」が先にあります。

呼吸について考えるようになったキッカケは、小さい頃から二十代半ばまで持病の喘息に悩まされていたことにあります。発作が起きると呼吸がスムーズに出来ず非常にしんどくなります。特に息が吸えなくて辛いのですが、そんなとき、息を吸うことよりも吐くことに力を入れると、吸う息が自然と入ってきて少しは呼吸が楽になるのです。

人間、吸うことには力が入らず、吐くときにこそ力が込められるのだと得心しました。

スポーツや武道でも、力を込めるときには息を吐き、あるいは声に出しますよね。息を吸いながらサッカーのシュートや正拳突きで力を発揮できる人はいません。

つまり、内へ向けてではなく外へ向けて力を発揮できるような構造になっており、これはすべての生物に共通する本質でもあると思います。自然界のものは外側へ力を発揮することで繁殖し、子孫を残してきました。細胞分裂、植物の花や実、動物の行動、みんな外側へ向けて力を発揮し、結果として自分が得られる仕組みになっているのです。

ですから、得よう得ようと自分の内側へばかり意識を向けていると呼吸困難になってしまうわけです。「我の利」ばかりを追い求めると文字通り「ガリガリ(我利我利)」になってしまう。「他の利」へ意識を向けることで、自分のことは自然と「足り(他利)」てくるものなのです。

 

また、人間の命は「吐く」ことから始まっています。

赤ちゃんがお腹の中から出てきて産声をあげるとき、まず吐きます。その前に空気を吸う必要があるのですが、生まれた瞬間は息を吐いて鼻や口に溜まっている羊水を吐き出します。それから息を吸って産声をあげるのです。

自分の子供が産まれるとき、産婦人科で看護師の方に「どのように赤ちゃんを迎えたいですか?」と聞かれ、そんなの分からないので「生まれた瞬間に産声をあげるために息を吸う前、羊水をどのように吐き出すのか確認をしたいです」と答えました(笑)。笑われましたが、出産に立ち会ったとき、確かにこの目で確認することができました。考えた通り、人間の命はやはり「吐く」から始まったのです。

一方、死ぬときのことを「息を引き取る」と言います。人は死ぬ間際、そよ風が肺に入っていくようにスーッと息を吸って終えるのです。これは、臨終に立ち会った知人数人からも確認したと報告を受けているので間違いないでしょう。ただし、事故や病気で急死した際にはその限りではありません。

このように、人生は「吐く」に始まり、「吸う」で終えるのです。その順序が重要で、必ず「吐く=外向きの力=アウトプット」が先であることを忘れてはいけません。

 

ところで、僕は毎月、お寺で法要と勉強会をやっています。

ちなみに今月はこんな感じでした。

7月の勉強会の内容を見る⇀

勉強会は僕にとって良きアウトプットの場であり、それが毎月8日にあることで1ヶ月間の出来事はすべてアウトプットのためのインプット期間になっています。すると、どんなことでも身につくのが早いだけでなく、起こること全てが「ネタ」と化し、無難な日常を送るよりもトラブルがあった方が味があって面白く感じられるのです(笑)。

人生を通していかにネタをストックできるか。アウトプット前提で日々を過ごせば、全部まるごと楽しい出来事に一変します。

今はブログやYouTube、SNSなど、アウトプットできる機会が身近にいくらでもありますから、定期的なアウトプットの場を持つことをオススメします。人に教える前提で学習するのが一番効果が高いと言われている通りですね。

その「おみくじ」見逃してませんか?

こんにちは。下村知範です。

春休み期間中、遊びに出かけることに忙しい半月でした。

 

お寺や神社にお参りしたとき、「おみくじ」を引きますか?

ぼくは何かの節目や、ふと気になったときには引きます。

引いた人を喜ばせるために大吉の割合が多いと聞きますが、
大吉が出るとテンションが上がる人は多いのではないでしょうか。

凶だとガッカリしてしまいそうですけど、
「〇〇だから気をつけなさい」と書かれていると
気持ちを引き締められるため
それはそれで良いなと感じます。

占いは「そのまま進むとこうなるよ」
という注意喚起の役割もありますから
良くないことが起こると事前に知り
予測して回避できるため、ラッキーなのです。

どちらにしても
ぼくは大吉とか凶はあんまり気にしなくて
短歌や詩が書かれている箇所や
願望、待人、失物、旅行、商売、学問……
の欄を見ることを楽しんでいます。

例えば、「出産」は男には関係ないと思われがちですが
男女問わず、アイデアを形にしたり
新しい物事を生み出すことって
多かれ少なかれ誰でもありますよね?

これって創造という意味での「出産」なんです。
なかなか考えがまとまらない時は苦しいですが
生み出せたときは何とも言えない幸福感を得られます。

生みの苦しみと喜びですね。

「恋愛」の箇所についても
既婚者であろうと恋する対象は人だけとは限りませんし
「縁談」は夫婦の結婚だけでなく
良きパートナーとの縁とも言い換えられるでしょう。

そう捉えていくと、ぜんぶ自分ごとに見えてくるはず。

今まで、「この部分は自分には関係ないや」と
スルーしている箇所がある方は
是非じっくり全部読んでみてください。

新しい発見があるかもしれません。

おみくじは、
箱の中から選び取った場合でも
筒を振って出てきた数字であっても
その”縁”を大切に受け止めたいものです。

ぼくは植物や野菜の苗を買うときにも
「あ、目があったな」と思ったら
たとえ少々弱っていたり小さかったりしても
その縁を大切にして、あまり選り好みしないように気をつけています。

おみくじに限らず、何事も「自分には関係ない」とシャットダウンせず
「自分にとっては〇〇な意味があるかもしれない」と
視点を変えることで見える世界はグンと広がります。

そうすることで何気ない日々が特別に感じられ
一瞬一瞬をしっかり味わうことができ
きっと人生を豊かなものにしてれることでしょう。

「あるべきようわ」の七字を保つべし

こんにちは。下村 知範(ともき)です。

だいぶブームは過ぎ去った気がしますが、
「ありのまま」という言葉が、某映画の影響もあって
大流行していたのは記憶に新しいですよね。

タイトルは伏せてイニシャルにしておきますが
『Aナと雪の女王』の公開は2013年、2は2019年。
もうそんなに経ったんですか……。
時間の流れの早いこと。

そんな「ありのまま」という言葉が
言い訳のように使われている場面があって釈然としません。

例えば、とてもだらしのない人に対して
「いいのよ。あなたらしく、ありのままで」
と声をかけているような場面。

ダメな部分をも肯定してしまって
「言い訳」と「ありのまま」がごちゃ混ぜです。

「あなたらしく」「ありのままで」などの言葉は、
聞こえが良いだけにそれを逆手にとって
未熟さを是認して努力を怠ったり、
自分を律することの出来ない場合の言い訳になっていたり、
本来の意味とはズレた解釈をして
都合良く使われていることがよくあります。

 

そこで、僕が敬愛している明恵(みょうえ)上人という
鎌倉時代の僧侶を紹介したいと思います。

明恵は、僧侶としてのあり方を問い直し、
厳格にお釈迦様の純粋なる教えを追求した人です。

出しゃばることが嫌いであったため、あまり表には出ず
鎌倉仏教で有名な法然や親鸞、道元、栄西、一遍、日蓮は
教科書にも出てきて有名ですが、明恵はあまり知られていません。
ところが、他の僧や社会との関わりは少ないわけではなく
法然のことを強く批判する本を出版したこともありました。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時。
その子である泰時は、六波羅探題の在任中に、
明恵が住職を務めていた高山寺へ何度も足を運び、
その教えを受けていました。
御成敗式目には聡明なる泰時の考えだけでなく、
根底には明恵の思想が流れているのかもしれません。

京都の高雄にある神護寺は有名ですが、
その隣に位置する高山寺もなかなか良いですよ。
近くに行くことがあれば、立ち寄ってみることをオススメします。

そんな明恵が、弟子たちに次のような言葉を残していました。
無論、泰時にも話していたことでしょう。

「人は阿留辺畿夜宇和と云う七文字を持(たも)つべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。
乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり。」
(『栂尾明恵上人遺訓』より)

「阿留辺畿夜宇和」は「あるべきようわ」と読みます。
いわゆる万葉仮名ですね。
現代で言えば、ヤンキー用語の「ヨロシク=夜露死苦」のようなものです。
その七文字だけを万葉仮名にした理由は定かではありませんが、
強調したかったことには間違い無いでしょう。

「ありのままに」は、現状を受け入れ肯定しているのに対し
「あるべきようは?」とは、本来あるべき理想像を問いかけ
「そのものらしさ」を大切にして道を進むことを教えています。
そうでないと、すべて悪い方へ向かうと言っているわけです。

明恵上人には他にも様々な逸話があって大変おもしろいのですが、
その中でも特に有名な「あるべきようは?」の教えをご紹介しました。
興味のある方は、ぜひ他にも調べてみてください。

「あるべきようわ」の七文字は、
僕も座右の銘にして、常に自分自身を戒め
本来あるべき理想の姿を問いかけるようにしています。

そうやって世の中の物事を観ていくと本質を捉えることができて、
徐々に真実の世界が見えてくるかもしれませんね。

今年の1月に立てた目標、覚えてますか?

こんにちは。下村知範です。

あっという間に12月ですね。この時期、みんなそう言います(笑)

年始になったら多くに人がその年の目標なんかを決めたりしますが、
大抵の人は春が来る頃にはもう忘れてるんじゃないかと思います。

今年に目標立てた人は目標を覚えてますか?

達成してますか?

「できてなかったから来年頑張ろう!」

・・・なんて思ってるんじゃないですか?

僕は昔はそうでした(笑)

 

今年は1月にKYOENのメンバーで初詣に行って
ダルマに今年の目標を書いたんですよね。

毎日できたかどうか判断できる内容にしたので
達磨の裏側に「正」の字で昨日達成できたかどうかをチェックすることにして…

なんとか毎日達成し続けて、もうすぐ正の字も365に。

厳密に言えば、つけ忘れたりした日があって後でまとめてチェックしたこともあるのですが、目標はしっかり毎日達成しました。

さらに今年のテーマは「当意即妙」と決めていて
その場で機転をきかした判断や対応をすることを意識した日々でした。

なかなかそうはならない場面もあったりして反省はあります…

それでも一つ何か自分自身ができるようになったり、成長すると
また別の至らなさが見えてくるものです。

今年はよく嫁にイライラした1年だったなと反省しています(笑)

ですから、もう今から気をつけているわけなんですが

「一言一行」

来年は、ひとつひとつの言動や行動に気を付けることをテーマに過ごそうと思っています。

 

話を戻しまして
「あれやります!これやります!」
と、目標やマニフェストだけ体裁の良いことばかり掲げて
実際はどうだったのか? 結果はどうだったのか?
その結果を通して、次はどうするのか?
そういう振り返りが苦手な人は多いのかなと感じます。

某国の政治家はやったことを振り返る気配はまったく無いうえに
政府はコロナ対策でも何でもやるだけやりっぱなしで検証を全くしません。

それでは前に進みませんし、いつまでも行き当たりばったり。

そんな国柄が人にまで影響を及ぼしているのか、そういう人柄が国をつくっているのか分かりませんが、PDCAって言葉の一人歩き感は否めません。

立てたならば、目標はきちんと振り返って次へ活かすべきですし
それができないなら立てる意味も必要もないでしょう。

また、夢や目標は書いたら実現する、達成するとか
言葉にすれば夢が叶うとか、斎藤H人さんとかがよく言ってそうですが
形だけやっても意味がないことは言うまでもありません。

要は意識の問題で、書かなくても言わなくても固く決意していれば
夢の実現も、目標の達成も当たり前にできるものだと思います。

それと、達成も未達成もその人の習慣だと僕は捉えています。

立てたことを「やり遂げる習慣」か、立てて「立てっぱなしにする習慣」か
どちらの習慣か?

言って言いっぱなしの人を見ると
「あー、また言ってるな…でもどうせまた口だけやろな〜」
と思いますし

口にしたことを必ず実行したり、失敗してもしっかりと反省したりする人は
「この人が言ってるんやからきっと実現するんやろな〜」
と思います。

どっちが悪いでも良いでもないけど、自分がどうありたいかですよね。

あなたはどっちでしょうか?

分を辨える

こんにちは。
KYOEN理事の下村知範(ともき)と申します。

ホームページには初登場なので少し自己紹介をさせてください。

クリエイターとして、主な仕事は印刷物やWEBなどのデザイン制作。
そこから派生してマーケティングのセミナーや研修に始まり、小さなお店や企業のコンサルティング、社員研修、個人コーチングなどもしています。

3年ほど前から、お寺で月に一度の勉強会を主催しており、法要をすることもあります。
昨年、成り行きで得度して僧侶にもなりました。


真面目にふざけています。笑

また、畑を耕して野菜を育てつつ、漬物や梅干し、味噌づくりなど、日々の食事に手作りのものを少しでも取り入れられるように奮闘中。

周りの人からは「一体何をしているの?」と言われて困るのですが、昔ながらのアナログな農耕的暮らしと、デジタル技術の良さを調和させて、心地の良い生き方を実践、実感しているところです。

先日、テレビ朝日のニュース番組にて、尊敬する師と共に僕のことも少し取り上げていただきました。
https://youtu.be/DlA_36bOBF4
(テレビ放送と同じ内容のyoutube)

KYOENではコンセプトやロゴ創り、ときどき研修や大学講義にも登壇させていただいております。

 

さて、タイトルの「分を辨(わきま)える」という言葉。

「出しゃばったマネをするな!」とか「立場を考えろ!」などと罵るような意味で使われますよね。

しかし本来は、日本人が古くから大切にしていた重要な考え方。

分際の「分」、身分の「分」、自分の「分」、その人の性質を表した「本分」です。

「個性」「自分らしさ」と言い換えても良いでしょう。

分不相応なことに手を出したり、背伸びをしたり、あるいは謙遜し過ぎたりすると、次第に歯車が狂っておかしくなっていくため、過不足のない「らしさ」を僕は大切にしています。

植物には植物の、動物には動物の、人間には人間の、そして自分には自分の「分」があるわけです。

ですから、金儲けだけに走ったり、見栄を張った行動をとったりしていると必ずどこかでつまづきがありました。

誰かに憧れたとしても自分は他人にはなれません。

「個性を研ぎ澄ましていくこと」と概ね同じ意味で、ギリシャ哲学に「アレテー(徳)」という言葉があります。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』によれば、アレテーに即した活動が究極の幸福へ繋がっていくとのこと。
僕もそう思います。

人は植物や他の動物はおろか、他者にはなれません。
人間らしく、自分らしくあることが肝要ですね。

自分らしさを発揮して、自分にしかできないことに専念する。
そうやって生きていくことができれば、活動する一瞬一瞬、「今ここ」において充実感が溢れ、きっと幸福を実感することができるでしょう。

自分を自分たらしめる本分。
個性が進みたがっている方向を妨げてはなりません。

そのために、欲望にはちょっと引っ込んでもらって、純粋な魂の声に「心の耳」を傾ける必要があります。

ところが、邪魔が入るんですよね。
世の中は欲望を満たそうとする魅惑に溢れていますから。

かのブッダが瞑想をしていたとき、悪魔マーラがあの手この手で妨害してくるかの如く
「○○が儲かる、安定する」
「△△なら楽ができる」
「□□をするとモテる」
・・・・・・といった悪魔の囁き声が大きくなって、心が揺らいでしまうのが人間というもの。
誘惑の多い現代で、純粋な魂の声を聞くのは至極困難です。

そこで、選択肢がある場面や、物事を進めるかどうかの判断をする際、僕は常にこう問いかけています。

「心の底から純粋にワクワクしているか?」

「●●だからやりたい」といった理由のない、純粋に下心なく「やりたいからやりたい」ことをするんです。

これによって採算度外視ですべて決めていくわけですから、経済的な赤字や、大変な苦労をすることもありますが、結果として良かったと思える経験に必ず繋がっています。

また、そのプロセスに幸せを感じるわけなのでそれで良いんです。

ワクワクの発見が、自分の「分」を知ることに繋がり、欲望に傾かないよう己を律する、即ち「辨える」ことで、社会における役割を全うすることができる。
これこそ天から与えられた使命を生きる道なのではないでしょうか。

分を弁えた人が、それぞれの才能を存分に発揮し、同じ理念に共感する集団となれば、相乗効果によってさらに価値が高まる組織になっていきます。

一人一人が主役となって多才な個性が発露する共同体。
シェイクスピアが残した「人生は芝居である」という言葉を借りるなら、今日を大切にした上で様々な人と関わり合って共演する劇団。
アーサー王と騎士達さながら、上下関係なく円卓を囲み、卓越された色とりどりのおもてなし。
そのような饗宴の場を創造していくのがKYOENなのです。

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